一般財団法人 全国落花生協会

栽培の歴史

アンデス文明と落花生

落花生栽培の歴史は古く、今のペルーからボリビアの一部にあたる地域に存在した古代アンデス文明の遺跡から、紀元前4,000年頃から紀元1,000年頃までの落花生が多数出土しています。中でも、ペルー北海岸に高度な文化を築いたモチェ文化(紀元0~700年頃)は落花生の文化史と深いかかわりがあるとされ、落花生をモチーフにした壺や装飾品などが多く発見されています。また、モチェ文化のシパン王・古シパン王の墳墓から、落花生のかたちのパーツが連なった金銀製のネックレスも発見されています。

世界への広がり

落花生は、大航海時代の奴隷貿易によってブラジルからアフリカへ、そして世界へ広がったといわれますが、諸説あり、確かなことはわかっていません。乾燥した土地でも育つ落花生は、イギリスやフランスの植民地となった西アフリカ各地で盛んに栽培され、輸出されました。アメリカへの落花生の伝播にも諸説ありますが、アフリカ系の奴隷によってもたらされたとされています。始めは奴隷の食べ物であった落花生は、南北戦争以降、急速に一般的になり、アメリカ人にとって最もポピュラーな食べ物になりました。中でも愛されているピーナッツバターはアメリカ生まれと思われていますが、原産地である南米の先住民は昔から落花生をペーストにして食べていたほか、ピーナッツバターとカカオの組み合わせも古代インカで行われていたそうです。

日本へ

落花生の日本への伝来は、明治時代以降の記述によると、外国人との交流が盛んになる17世紀以降に中国からもたらされたといわれています。中国から琉球、中国から長崎という2つのルートが考えられますが、詳しくはわかっていません。

栽培については、明治7年、政府がアメリカから種子を取り寄せ、埼玉、三重、福島などの各地に配布し、栽培を推奨したのが始まりとされています。しかし、それより早く、明治4年に横浜の渡辺慶次郎氏が横浜居留地の中国人から種子を入手して、栽培に成功しています。また、同じく横浜の二見庄兵衛氏が同様に中国人から種子を入手、近隣に配布して栽培し、その中の1株を増殖して栽培を広げ、神奈川県の落花生栽培の発展に寄与したとされています。

千葉県が落花生の主産地へ

千葉県での栽培は、明治9年に山武郡南郷町(現山武市)の農家牧野万右エ門氏が神奈川県三浦郡中里村在住者から大金をはたいて種子を購入し、試作したのが始まりとされています。

明治10年、当時の県令(知事)が種子を鹿児島から取り寄せて県民に論告し、その栽培奨励に着手しました。明治11年、匝瑳郡鎌数村(現在の旭市)の戸長であった金谷総蔵氏がこの地が適地であることを確信して、熱心に近隣へ栽培を働きかけ、また、販売に尽力した結果、旭市を中心とした千葉県の落花生産地が育成されました。

大正時代に入って、落花生栽培は旭市から印旛郡台地(現在の八街市、富里市など)へ広がっていきました。旭市では、栽培されていた品種が干ばつの影響を受けやすく、収量の変化が激しかったため、次第に衰退していきましたが、一方で八街市は、安定した栽培が可能な品種が中国から伝わったと推測され、次第に栽培面積が広がっていきました。昭和に入って、千葉県は落花生研究に着手し、優良品種の開発に成功。全国へ普及していきました。

全国への広がり

全国では、第2次世界大戦時に統制によって嗜好品的要素の強い落花生は甘藷に取って代わられ、栽培は次第に姿を消しましたが、昭和26年に作付統制が解除されると再び作付けが拡大しました。生産量は昭和38年に144,000tと最高を記録し、昭和40年に作付面積が66,500haとなりましたが、その後は野菜類への転換や栽培の機械化の遅れなどから生産量は縮小し、令和2年は6,220ha、13,200tとなっています。

主要参考文献:
前田和美著『ものと人間の文化史154 落花生』(法政大学出版局刊)
参考サイト:
千葉県ホームページ「落花生|旬鮮図鑑」
https://www.pref.chiba.lg.jp/ryuhan/pbmgm/zukan/kome/rakkase.html